ここ数年の話
ここ2年ほど,絵を描くモチベーションを見失っている. 描きたいけど描けない…そんな感じ
そうなったきっかけははっきり自覚していて,SNS上でいつもと比較して何倍もの反応をもらったことだった. これまでは暗闇に石を投げ続ける感覚しかなかっただけに,憧れのイラストレーターから続々と反応がもらえる様子を眺めるのは本当に幸せだった. その一方で,それ以来なにか生み出そう!という熱量がふっと抜け落ちた感覚がある.
その原因としては色々ある.承認欲求が満たされたとか,SNSに上げるハードルが高くなったとか,就活を始めたとか,,,考え出すときりがない.描かない理由はいくらでも出てくる.別に無理してやる必要のないことだし ただ,最も大きな要因はやはり承認されてしまったことだと思う.認めたくはないけど.絵を描くということについて,自分は楽しいから描いてるんだ!人の目とか気にしないぜ!と思っていただけに,ちょっともてはやされただけで満足してしまった事実を認めることはかなり悔しい.
これまでの動機
これまで自分は絵を描くモチベーションは人に褒められることだったと思う。 小学校の頃に絵が上手いヤツという自認が芽生えてから、うまく見られたい一心で絵を描いていた どれくらい褒められたかったかというと、小学校の頃、まずは家でノートにポケモンの絵を一生懸命に、ほぼ完璧という完成度に仕上げる。 それを教室に持っていき、休み時間に何気なく取り出して続きを描くのだ。
というわけで、「上手である」ことが自分の中で絵を見る際のものさしだったと思う。 そのため,上手に描くためのHowToにはかなり目を奪われてきた。 教本なんかを買い漁っては満足し、30秒ドローイングを無理して続けていた.その時の主なモチベーションは「画力向上に努力している自分」を感じたいというのがホンネ
多分だけど,学校のお勉強のノリをそのままお絵描きに当てはめていたと思う. 参考書の公式をきっちり覚えればテストで点が取れるというように,デッサンや解剖学,色,光の使い方の本を教科書的に読み漁り,その各方面を伸ばしていけば完璧な物が作れる!という感じ. 本で知ったことを試すために絵を描く,というようなことをずっと続けていて,何が描きたいかよりどうやったら世間の上手い絵と同じことができるか?ということに全力を注いでいた.憧れのイラストレーターに近づくために頑張っていた 何かしら進歩が感じられるとものすごく嬉しい.以前より筋肉がそれっぽく描けるようになった!とか,フォトバッシュをそれっぽく使えるようになった!とか. 振り返ると技術ばかりに目を奪われて,何がしたいか全く内省してこなかったように思う. まあでもこの辺の感覚は自分に限ったことではないと思う.だからこそ世の中にはHowTo本が溢れているし,練習成果をSNSに上げ続ける人も多い. 別に悪いことじゃないと思うが,自分の場合は決定的に目的意識を欠いたまま描き続けていたように思う.
描きたいものがない
バズりの余韻に浸っているうちに就活の時期が差し迫っていた. これまでのハングリー精神が満たされたこともあって,この時期から「大きな目標も達成したことだし,これからは表現したいことがあるときにしか描かないようにしよう」と決めた.
この年は研究とバイトに色々忙しく,かなり距離を置いていたと思う。それでも何かしら手を動かそうとはしていて,なんでもない落書きの記録を見るに,ぽつぽつと描こうとしている様子が伺える. 次第に距離が空いていいたが,全くと行っていいほど絵を描くモチベーションが湧いてこなかった. このあたりから,絵を描くモチベーションについて悩み始めたように思う.
他の人はどう考えてる?
自分以外の人はどんなモチベーションで絵を描いているのか?という疑問が湧き,色々と手当たり次第読んでいた.
特に印象的な部分を挙げてみる
荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書) | 荒木 飛呂彦 |本 | 通販 | Amazon
絵とは何か,という話をしたいと思います.絵の本質的な役割は,見えないものを可視化して伝えることだ,と考えています.描き手は一体何を伝えたいのか,と言えば,それは愛や友情,正義など目に見えないものであり,見えないものを絵にしないといけないのです.
絵を描く前の頭の中にあるものはボヤッとしてて,もっとかっこいいからね.もっとかっこいいものを書こうとして,意外とかっこよくなかったってところが今のオレの現実です.
なにかボヤーッとした無効に超かっこいいのがあるんだよねーっていうモノを自分で見たいから描いてる.
先人からもらってきたのもをもう一度自分なりに美味しくいただきたいというのが本当のところなのかもしれない.(中略)もらってきたかっこいいモノを自分なりにもっと好きな形で再現したいというのが原動力じゃないかと思います.
Advanced Basics: Video Tutorial
絵とは、視覚的な言語である.コミュニケーションのためのツールであり、誰かにアイデアを伝えるために用いられる. 「自分はこの言語に向いていない,,,」という悩み方をする人はいない.あくまで言語は考えを伝えるための手段である.
アーティストのアイデアを真摯に探求している作品は、技術的に優れていても何も表現していない作品よりも、関心を集めるものです.
技術的に稚拙であることを恥じる必要はない.しかし,アイデアを明確に持つことは重要である
「たとえばいま,木漏れ日辛さ明日光がカーテンにキラキラ映し出される感じ.そんな普段の生活の中の位置場面や自然の美しさを,いいなあ,と感じている.ほんとうはそうして自分で感じているだけでいいのだけれど,その「感じ」をアートの中に表現したい.別に誰がしなくてもいいのだけれど,やらずにはいられない.わたしは,究極に美しいものをつくりたい」
画家の山口晃さんが,テレビで話していた言葉が思い浮かぶ.「わたしがおもしろい(大切)と思うものを誰もそう思わない.だから,そう思えるよう表現してやる,それが表現だ」
要は、絵画というのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実画像を結ぶようにすることの方が大切なのではないでしょうか。
絵描きは基本的に嘘つきです。ただ、その嘘は見た人の心の中にこそ「本当」が焦点を結ぶように事実を調整した結果なのです。
人間の欲求につながらなければ、絵なんて誰も楽しめません。 絵画は紙や布に絵の具を乗せた痕跡です。痕跡自体に価値なんてありません。 価値のないものに「人間の想像力をふくらませる」という価値が加えられているのです。
人と人。魂と魂。天と地。あの世とこの世。 異なるもの同士がつながるための、言葉以外のコミュニケーションツールは確かにある。 そして、アートもコミュニケーションツールであると、私は信じている。
自分の中に芸術作品を通して社会に向けた主張がしたい!というモチベーションは無いので,今の自分に最もしっくり来るのは寺田さんの考え方かな~と思う. オレの考えたこれ,いいでしょ?って風な.
結論
時間を置くことで,自分は何かを表現したいというより,「絵が上手い人になりたかった」と振り返ることができた. デッサンが整っているとか光の表現が巧みであるとか,そいういったことはすべて手段であって,伝えるべきことがあって初めて生きるものであると今は納得している
かといって,特に伝えたい,表現したいことがあるわけでもないな…というのが実情.あえて筆をとる理由がない. やる気に関する一般的な理論として,やる気は取り掛かってから湧き出るものであるというのも理解できる.それにしても,なぜ描くのか?という確固たるモチベーションを定めないとまた迷子になりそうでためらっている. それでも何か生み出したいという気持ちが捨てきれないのは,やっぱりいいものを作り上げたときは気持ちがいいから.僕が一番好きなのは,描いた絵を見返している時. それを知っているがために,その幻想を追ってしまう
思うに,自分の好み・価値基準が曖昧なことが原因なんじゃないかと思っている. 普段から感じることとして,いわゆるオタク的・熱狂的に好きなことってあまりないな~という感覚がある. 好きな食べ物でも好きな曲でもそうだが,これといって言い表すことができない感じ. これはおそらく「大嫌いなもの」は特に無いよ!という生き方の弊害なんだろうなという気がしている. 嫌いなものがない代わりに好きなものもないという状態. モノを見る解像度が低いのかもしれない.